また1年

そう言えばここで何か記事を書いていたなと思い出し、1年前の記憶を辿ってまたやって来ました。

 

さて、こうしてまた1年経ちブログを更新できたことを喜ぶべきなのでしょうか?

死んでしまいたい、消えてしまいたいと思いながらの日々であったので少なくとも私自身は喜ぶことが出来ません。

あの時どうして死んでおかなかったんだと、あの日の私を心底憎んでいます。

 

 

そんな中でも2年経てば気付くこともあります。

それはどうして私がこんなことになっているのか。

 

「私」というものがないのです。

「私」という個がなく、「私」という意志もない。

したいこともやりたいこともない。

これでは生きたい理由などない。

かと言って今からその理由を探すのも途方ないでしょう。

 

しかし、何処かで「それでも」と叫んでいる自分がいる。幸せを望んでる自分がいる。

 

死んで1年

 

どうもお久しぶりです。

気が付けば早いもので自殺未遂から1年が経とうとしています。

 

親から死なないでくれと言われ、その通りにして1年です。

良いこともあるとはよく聞きますが苦難の1年でした。

あの時死んでおけばよかったと今でも後悔しています。

 

死なないで働いてくれ。

それだけが望みの両親に諭されそれなりにも働きましたがやはり何かがズレてる、

そんな気さえしています。

でもそうですよね。

生きるために生きてるのではなく、

死ぬために生きているんですからズレていると感じてもおかしくないのかもしれません。

 

生きる意味も見出せず苦痛の中にいるくらいなら死んだ方がいいですし、その価値も見出せません。

 

死なないでほしいとは呪いです。

死ねよりももっと強い呪いです。

 

希死念慮

 

この記事は個人的な感想みたいな何かです。

続くかどうかもわかりません。

要するに愚痴とか我儘と何ら変わりません。

てきとうに書き殴っているので誤字脱字あるかもしれません。

申し訳ないです。

 

 

私は20後半で安定した職にもついていないクズです。

どうぞ思う存分笑って下さい。下には下がいると嘲笑して下さい。

夢にも敗れ、恋人もおらず、

私に出来ることはせいぜい自分を貶す事くらいです。

 

希死念慮

という言葉はつい最近知りましたが、私の人生は正しくこれと二人三脚でした。

今も忘れない小学4年生の夏ごろ。

母から「死ね」と言われ手を上げられ、それ自体は今までもあったことなのですが、

「もう一緒に死のうか」と言われた時の母の顔は酷く悍ましい顔でした。

喜怒哀楽もない淡々と告げられたその言葉と表情を私は直視出来ませんでした。

それと同時に、

「ああ、私は居たらいけない存在なんだ」

「居るだけでこんなにも迷惑をかけてしまう存在なんだ」

そんな思いで心は支配されました。

 

「こんな私なんて生きてちゃいけない。死にたい」

そう考えるようになるのは自然でしょう。

十年以上の付き合いになる私と希死念慮との出会いでした。

 

母は所謂毒親というものなのだと思います。

何処からが毒で、何処からが毒じゃないのかはハッキリと分かりませんが、

私にとっては毒でした。それは今も続いています。

暴言や暴力、私という存在は否定され、そんな中自尊心を育てろという方が難しい。

父とはほとんど会話も交わさず介入してくることもありませんでした。

どうして助けてくれないのかと恨んだ事もありました。

この家族仲は今も何一つ改善されていません。変わる事もないのでしょう。

 

しかしここまでは幼き日の話。

死にたいと思う事は出来ても、それを実行に移す事は叶いません。

死ぬのは怖い。

当たり前です、小学生なのですから。

ですが成人し、所謂大人と言われる年齢になった今ならどうでしょうか。

 

20代前半、親の事も私の事も理解してくれた恋人が出来ました。

誰からも必要とされていなかった私もこの人のためなら生きていける。

愛情を注いでくれた、必要とも言ってくれた、だから頑張ろう。

死にたいと思うのは我慢しようと。

これで幸せになれたのならハッピーエンドだったのでしょう。

そもそもこんな事をここに綴る事もありませんでした。

結果としてこっぴどくフラれてしまいました。

現実は残酷です。2週間と経たずに相手に新しい恋人がいると知りました。

「どうして」とも思いましたが、それもそうです。

感情の負債を抱えまくった人間と一緒に居ても楽しくないでしょう。

一言で片づけてしまえば「面倒くさい人間」なのです。

 

心が離れて行っても仕方ない。と納得も出来ず無茶苦茶に働きました。

上司も驚くほど働きお金を稼いで、そのお金の大半をソシャゲに注ぎ込みました。

 

そうでもしないと自分を保てなかったのです。

そうでもしないと気が狂ってしまいそうだったのです。

いいえ、もうこの時点で私は狂っていたのでしょう。

無茶苦茶の見返りとして私の身体はボロボロになっていきました。

ご飯も喉を通らずガリガリと痩せていき、心を燃え尽きてしまいました。

 

ある日、全てがどうでもよくなってしまいます。

冷静になってしまったのです。

「こんなことをして何の意味があるのか」

「こんな私に何の意味があるのか」

「こんな私は消えて無くなってしまわないといけない」

今まで何かで抑え込んでいた希死念慮が私を支配しました。

死のうと思えば今からでも死ねる。その方法も知っている。

そう思うだけで心は楽になっていきました。

視界も開け、肩の荷も降りたように思います。

 

その日から仕事にも行かないようになりある決心をしました。

「1年間好きなことをしよう。

思う存分遊んで死んでやろう。

これが私なりのこの世への復讐だ」

好きなことで満たされた1年は今まで出来なかった事も出来て充実と言ってよいでしょう。

しかしそれは上っ面だけでした。

夜になれば意味もなく泣き、夜も寝れず、母の暴言に怯えるだけの日々。

そのギャップも私の心を確実に蝕んでいったのでしょう。

そして1年後、私は死ぬために線路へ向かうのでした。

 

飛び出しは迷惑がかかるなんて言いますが、私が死んだ後に迷惑なんて知ったことではありません。文句ならこうなってしまったこの世界にでも言ってくれとそんな心境だったと思います。

ただ一人の友人にだけメッセージを残しました。

これから死ぬよ、元気でね。くらいの内容です。

どうして送ったのか、どうしてその友人にだけだったのかは分かりませんが、結果として友人の説得と私自身目の前にして足が動かず断念してしまいました。

ただひたすらに謝っていたと思います。

その謝罪は「(生きていて)ごめんなさい」でしたが。

 

一度目の自殺は惜しくも失敗してしまいました。

そこで死んでおけば良かったと今でも思っています。

勇気のない自分に後悔もしています。

 

一か月後くらいでしょうか、再び死のうと思い立ちます。

死ぬ事も出来ずますます精神が疲弊しきってしまったのか、この時はあまり記憶になりません。ぼんやりとしか覚えていないのです。

夜人気のない公園に紐を持って首を括ろうとしたのですが、これもまた失敗しました。

首に紐を括り付けたことは覚えているのですが、気が付けば家の前に居たのです。

 

何故か母は心底心配してくれました。

その時の私の顔は見ていませんが、いつかの母のような顔をしていたのでしょう。

そうしてこの時に色々な事を話しました。が何も変わりませんでした。

今も母は毒を吐き、父は無干渉、しかし死ぬのだけは辞めてくれと言います。

老後私の面倒を見てもらわないといけないそうです。お金も稼いで支えて欲しいそうです。

 

 

鬱なのか適応障害なのか、私には分かりませんが、ただ死ぬ自由だけは奪わないで欲しい。